御祭神
由 緒
当神社は学問の神様として広く世人に崇敬されている贈太政大臣正一位菅原道真公を主祭神に、脇殿に大己貴命、少彦名命をお祀りする神社であります。
延喜元年(901年)菅公筑紫左遷の砌当地に御休息され海上の平穏と萬民の幸福を祈願され記念に松樹を植えられました。後世の人、公の徳を追慕し長和元年(1012年)小祠を建てお祀りしたのが起源で、文安元年(1444年)八月三十日社殿を建立し特に学問の神としてお祀りしています。
天文五年(1536年)七月領主赤松政村殿より社領十五石が寄せられ元和五年(1619年)十月京都所司代板倉伊賀守勝重殿より社領十石並に境内地七十五町歩の寄進があり注:寛文十三年(1673年)大改築が行われ、雄大荘厳な社殿が竣工し宏大な境内地を有し社頭大いに栄えていました。其の後約百年毎に大修理が行われ明治六年郷社に列格されました。
昭和四十八年九月より大改築を行い昭和五十年三月現代の社殿が完成しました。誠に忝くも「我を信ずる輩は諸の悪事災難風波の難を救はん」との御神託を伝え、学業成就、縁結び、家業繁栄、交通安全の神様と仰がれています。
注:一説によると寛文十二年(1672年)
氏子地域
加古川市別府町 新野辺(しのべ)
加古川市尾上町 口里(くちり) 安田(やすた)
加古川市加古川町 北在家(きたざいけ)
加古川市野口町 長砂(ながすな) 鵤(いかるが) 坂井(さかい) 古大内(ふるおうち)
菅家は天穂日命(あめのほひのみこと)より出で野見宿彌(のみのすくね)の末裔で光仁帝の御代に菅原の姓を許された道真公は御父を是善公、母は大伴氏の出で、承和12年(845年)6月25日京都の菅原院でお生まれになり幼名を「阿呼(アコ)」又は「吉詳丸」といい後人徳を仰ぎ「菅公」又は「菅丞相」と称し学問の神様として世間から尊ばれ5才の時庭の梅花を見て
[うつくしや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある]
と和歌を詠みそのことが帝の御聴聞に達っし参内が許され11才の時[月夜見梅花]の詩を作られました。
33才にして文学博士、55才の時右大臣兼近衛大将に任じられ昌泰4年(901年)正月57才で従二位昇級せられたが、延喜元年(901年)藤原氏の権盛に屈し同月25日大宰府の権の卒に左遷、九州に下向される事となり2月京都を出発の際、庭前の梅花を見て
[東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ]
と詠じ給う。途中河内の国土師の里道明寺に立ち寄り寿尼(覚寿尼)という伯母君に別れを告げ海路九州太宰府に向かわれたのであります。
播磨の国、明石の駅にて
[駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋]
と口ずさみまた当地の海岸を通られたとき船中不思議の思いをされ陸に上がられ暫くご休息されました。
海上の平穏と国家の平和を祈願され記念に松の木を植えられました。
3月上旬太宰府に着かれ、榎寺に居を構えて一歩も門外に出られず、天を怨まず人を求めず皇室の御安泰を祈願され謹慎の意を表し御衣を捧げ[去年今夜]の詩を詠じ延喜3年(903年)2月25日59才にして薨去し給うたのであります。
後、一条天皇正歴3年(993年)10月20日に太政大臣の位を贈り給う。
[月夜見梅花] [去年今夜]
月の燿は晴れたる雪の如く 去年の今夜清涼に侍す
梅の花は照れる星に似たり 秋思の詩篇ひとり斷腸
憐れむべし金鏡轉じて 恩賜の御衣今ここに在り
庭上に玉房馨し 捧持して毎日餘香を拝す
菅公筑紫左遷の砌当地に立ち寄り海上の平穏と万民の幸福を祈願され記念に松の木を植えられました。
浜の宮名勝林は加古の松原(鹿児の浜松)の一部で昔の面影はほとんどございませんが、菅公お手植えの松はすくすくと生い育ち生い茂る様は幕末の志士 清川八郎東奔西走の時、日記に「根浮いてわだかまり幹は中空にそそり立ち枝は三段にして葉の色三様に分る」と記されています。
初代の松は明治初年惜しくも枯れ現在社殿東に二代目が生い茂っています。樹齢約550年、菅公永眠の地、太宰府を指し公の徳を敬慕する如く思われます。
|
|
|
初代 お手植えの松 版画 |
|
社殿東 二代目の松樹齢約550年 |
|